「……まだ寝てなかったの?」
「え? あ……ファルさん」
「こんな夜に弾いたら、怒られるんじゃない?」
「……いえ、弾くつもりはなかったんです」
私は指をすぐに離し、ファルさんと向かい合った。
「そうなんだ」
彼女は、私にその理由を尋ねることもなく、ただ微笑んでいた。なにかを話さなくては
いけないような気がして、その言葉を探した。そういえば、まだファルさんがここに残る
といった理由もきいていない。
「ファルさんは……どうして?」
「ん? ちょっと眠れなかったから。水でも飲もうかと思って歩いてたら、リセさんの背
中が見えて」
「そ、そうですか」
「あなたも眠れないの?」
「……ええ」
素直に頷いて、カバーをかけ直そうと手に取ると、その手を止めるようにファルさんが
そっと私の手をとった。
「少し、弾いてみない?」
「でも、時間が……」
「小さな音なら大丈夫よ。みんな疲れて眠ってるから」
ただ憧れの目で見られる私とは違い、ファルさんは子ども達ともすぐにうち解けていた。
最初は遠巻きに見ているだけだったけど、彼女の笑みには不思議な力があるようだった。
すぐにファルさんを囲む輪ができて、遅くまで遊びにつきあっていたその姿が、私の目に
は眩しく映った。
彼女は、私とは違うんだ。いや、私が彼女と違いすぎると言った方が正しい。
それも、悪い意味でだけ。
「子守唄でも駄目かな?」
私の不自然なくらい長い沈黙に、ファルさんが少し困ったような声でそう言う。
「い、いえ。そういうわけじゃ……」
「なら、少しだけ弾いてよ。私も小さな声で歌うから」
まるでいたづらっこのように小さく笑い、ファルさんは私から取り上げたカバーを綺麗
に折り畳む。私も、ファルさんの歌声が聴けるのなら、と頷いた。
「ありがとう。このままだと眠れそうになかったから」
そう言って、思い切り声を出すときとは違う、くつろいだ様子で机に腰をかけた。私は
それを合図に、よくよく注意をしながら小さな音でフォルテールを弾き始めた。
淡い月の光が、少し高い位置にある窓から彼女の姿を浮かび上がらせる。その幻想的
な光の中で、目を閉じ、ファルさんは小さな声で歌い始めた。柔らかなその声に、私も目
を閉じる。
小さな音楽会は、いつ果てるともなく続いた。羨ましいと思っていた浅ましい自分も、
彼女のその歌声を聴ける幸せの前では消え失せた。ただこの時間が楽しく、いつまでもこ
うして繋がっていたいとさえ思っていた。でも、終わりの時は必ず来る。幸せな時間にも、
そうでない時間にも。
「……ふう。気持ちよかった」
「お、お疲れさまです」
「うん、お疲れさま」
私の知っている何曲かの子守唄が終わり、二人でしばらくその余韻の中に浸っている
と、ファルさんが思い出したかのようにさりげない口調で私に話しかけた。
「そういえば、今日のフォルテールの音は、昨日とも少し違ってたみたいだけど――」
「え?」
「なにかあった?」
「なにか……ですか?」
ファルさんは無言で頷き、私の言葉を待っていた。彼女がなにかを感じたというのなら、
それは確かにそうなんだろう。でも、思い当たるのは、ここが私の生まれ育った場所であ
ることと……そのせいで強く思い出してしまった、クリスさんのことだけだった。
あの日、私からクリスさんに別れを告げた。もう来ないでください、と冷たい言葉を投
げかけた。そしてその約束は守られた。あのまま私が歌っていたら、クリスさんに迷惑を
かける結果にしかならなかっただろう。だから、私は正しいことをしたんだ。それだけだ。
……でも、実際は来てくれることを望んでいたのかもしれない。それでも私のことを気
に掛けてくれるんじゃないかとか、そんなずるい打算がわずかにでも存在したからこそ、
私は忘れることができないでいる。歌うことが許されたわずかな時間、それは確かに幸せ
な時間だった。
「やっぱり、なにかあったんだね」
その、彼女の歌う歌と同じくらい優しい声に、私ははっと意識を戻す。
「ここがあなたの生まれた場所?」
「……そうです。知ってたんですか?」
「今知ったの。私達が回る孤児院の中に、リセさんが暮らしてたところがあるって話は聞
いてたけどね。昨日と違うのは、そのせい?」
「……それも、あるかもしれません」
意識してついた嘘ではなかったけど、私はクリスさんのことをむりやり心から追い出した。
「なら明日は、私の番かな」
はにかむような笑顔で、静かにファルさんはそう呟く。ファルさんの生まれ育った場所
――明日行く孤児院は、そういう場所なんだろう。
「明日は……今日以上にがんばらないと」
まるで独り言のようにそう言って、ファルさんは今まで見せたことのない様な真剣な顔
をした。彼女もまた、希望なんだろう。私とは……ただ才能というのもおこがましい、幸
運だけでここにいる私とは違う、本当の希望。
そこには、私が憧れてやまない、理想のもう一人がいた。
あの時、会いに来ないでくださいと言ったはずなのに、私に会いに来てくれた、優しい
人。私の大好きな、憧れの人。
なりたかった、もう一人の自分。
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